恩師のライフキャリアシリーズでは、益田市でいきいきと生活されている教員の方を紹介し、自分なりの豊かな暮らしについて考える機会をお届けします。今回紹介するのは、現在は益田市教育委員会教育長をされており、元小学校教員の領家芳明(りょうけ・よしあき)さんです。
今回は、益田出身の領家さんが、どのようなライフストーリーを歩んでこられたのか、お話を伺いました。
野球の道具はみんなで共有、学年を超えて遊んだ幼少期
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-本日はよろしくお願いします!最初に、これまでのご経歴を教えていただけますか。
領家芳明です。高津地区出身で、高津中学校から益田高校に進学しました。その後、島根大学の教育学部で学び、小学校教員になりました。島根県の組織である教育庁や益田教育事務所に出向していた時期もあるため、教壇に立っていたのは通算15年ですね。現在は益田市教育委員会で教育長をしています。
-ずっと教育に関わってこられたんですね。先生ご自身は、どのような子どもでしたか?
近所の子どもたちで集まって遊びまわっていましたね。高津は砂浜の多い地域なので、そういうところにみんなで出かけるんです。自分たちより年上もいるし、もっと小さな子どもたちもいて、学年を超えて遊びました。一番よくしたのは野球でしたね。今のようにバットやグローブが1人1個ずつなんて無いので、用具はみんなで共有で。小さいうちはグローブが回ってこないから、遠くへ飛んで行ったボールを拾いに行くのが仕事でしたよ(笑)
-楽しそうですね。小学校の先生になろうと考え始めたのはいつ頃だったのでしょうか?
卒業後の進路について考え始めた高校生のときです。
今でいう、大学入学共通テストに当たるのですが、その先駆けとなった共通第一次学力試験の導入年度に、私は受験生だったんです。過去問もないし、進路傾向がどうなるかも分からない。混乱の中での進学でした。大学を見に行ったり受験科目を調べたり……手探りに情報を集めていました。
-前例がない中で進路を考えたり、受験校を決定したりするのは大変そうですね。
そうだったんです。その中で結果的に教育学部に決めたのは、今思うと「先生になりたい!」と強く思っていたわけでもなくて。
親世代からの期待もあり、将来的には益田に戻るということだけは、早い段階から思い描いていました。それで、いざ進路を決めようという段階になり、この地で何をしようかと思ったときに、教員という選択肢が浮かんできたんです。これといって決定的な出来事があったわけではないのですが、学校という場所は自分にとって悪くないと思えるところでした。子どもと遊ぶことも好き。幼少期に世代を超えて遊んだことが原体験となったのかもしれません。それで教育学部への進学を決めました。
「本気にならんといけん」大水害後の決意
-実際に、先生として益田に戻ってみていかがでしたか?赴任された頃の思い出を聞かせてください。
最初に赴任したのは吉田小学校でした。全校児童で1500人いる大規模校で、最初のうちは先輩の先生方についていくのが精一杯。一生懸命ではあったと思うのですが、今にして思えば、あの頃は益田に対する思いも、教育に対する熱意も、まだまだだったなと思います。ですが、教員になって1年目に、大きな転換点があったんです。
-転換点…!どんなことがあったのでしょうか?
益田が大水害に見舞われたんです。いわゆる58年水害(※「昭和58年7月豪雨」浜田市を中心とした山陰地方西部で局地的な集中豪雨が発生したことにより起こった水害。死者は100名以上にのぼり、激甚災害に指定された。)です。夏休みに入ってすぐの出来事でした。
職員室も水に浸かり、校庭にはヘドロがたくさん溜まりました。目の前で大変なことが起こってしまったことにまず衝撃を受けましたし、子どもたちの生活が一変したことを肌で感じました。家族が犠牲になってしまった子もいれば、家が被害を受けて日々を送るので精一杯という状況に置かれた子もいる。そうしたことに揺さぶられ続けるなかで、子どもたちを育む教員として、いい加減なことはできないという思いを強く抱きました。「本気にならんといけん」、そう思ったんです。
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小規模校での深い交流が教員としての原点となった
-先生の熱い思いの背景には、そのようなご体験があったんですね……。その後、どのような教員生活を送られたのでしょうか。
初任校勤務ののち、匹見の小学校に異動となりました。全校で16人の小さな学校です。
そこで、教員としての子どもたちとの関わりが大きく変わりました。その前の学校はクラスに45人でしたから、教員としての経験も浅かった自分には、ゆっくり一人一人を見て、じっくり対話し、その子ならではの良さを感じるということがなかなかできなかったんです。
ですが、小規模校だからこそ、それぞれの児童と向き合う時間が十分にあって。そうすると、「一人一人みんな違うんだ」ということが実感を伴って理解できるようになりました。
-その時の子どもたちとの関わりが、今の先生の大事にされていることの根底にあったんですね。匹見での教員生活で、他に印象的だったことはありますか?
保護者さんとの距離も近く、やってみたいことを口にすると、いつも応援してくれたのも印象的でした。なかでも忘れられないのは、縄文土器づくりですね。6年生の社会科で縄文時代を扱うときに、「匹見には当時の遺跡がたくさんあるな」と思ったんです。それで、「子どもたちと縄文土器を作ってみたい」とぽろっと口にしたところ、保護者さんのなかに職人をされている方がいて、一気に実現したんですよ。
–その保護者さんも、子どもたちのために専門性を活かすことができて嬉しかったかもしれませんね。
そうですね、それまでの経験や職人ネットワークをフル活用して協力してくれました。石州瓦の粘土をわざわざ仕入れてきてくれたりして。土器を焼く時にも、地域の方にたくさん協力してもらいました。焼き上がりまでの丸2日間、交代で火の番をしたんです。学校で何かやってるぞ、という噂が立ったのか、差し入れを持ってきてくださる方もいらっしゃいましたね。朝一番に火をつけて、夜通し焚火をし、翌日の夕方までかけて焼き上げた末に、ようやく完成。そうして子どもたちとの土器づくりが実現しました。
-子どもたちだけでなく、地域の関係性の中でみんなで作るというあり方が、とっても素敵です…!
子どもに対する大人たちの姿も印象的でした。「5教科の勉強だけでなく、豊かな感性を伸ばしてほしい」「熱意をもって一生懸命取り組めることを見つけてほしい」、子どもたちや学校への思いとして、親世代からおじいちゃんおばあちゃんまで、そうしたことを口にされる方がとても多かったんです。
匹見では児童一人一人の個性の違いや豊かな感受性を実感する場面がたくさんありましたが、その背景には、自然豊かな環境や児童数の少なさに加えて、そういう大人たちの姿勢がたしかにあったように感じましたね。
–領家さんにとって、これまでの教育観が大きく揺さぶられる体験だったんですね。
はい、匹見は私にとって第2の故郷であり、教育のスタート地点とも言えます。
子どもたちを見るときに、表出している言動だけではなくて、取り巻く環境も含めて、その人をまるごと見よう、受けとめようと思うようになったのも、自分にとっては大きな変化でした。
地域に入り込んでいく中で、子どもからも大人からも、「生き方」を見せてもらったんです。学校で見せる顔とそれ以外の顔、表向きの顔とそうでない顔。一人一人にさまざまな側面があり、その背景がある。そうしたものに触れる中で、みんな違っていて、それぞれがかけがえのない生き方をしているということを改めて感じました。
それからというもの、子どものある状態や言動、それだけに目を向けて、どうこうしようとするのではなくて、学校では見せない顔やその子を取り巻く背景まで考えたいと思うようになりました。そうした関わりの中でその子の良さを引き出していきたいなと。
そういう思いは今も変わらず大切にしています。子どもも大人も、その人がもっている良さをキラキラ輝かせる方が幸せだし楽しいから。
どの学年でも主役になれる「遊びをプロデュース」
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-子どもとも地域の大人とも深く関わろうとされてきた領家さん。暮らしと仕事が一本化しているような印象を受けました。教育庁や益田市教育事務所でお仕事をされていた時期があったというお話もありましたが、生活が一転したんじゃないですか?
そうなんです、最初は戸惑いの連続でした。教育庁でしていた仕事は、簡単に言うと人事管理です。教員採用試験に関する業務とか、文部科学省に教員数増のための陳情プレゼンをするとか。そういう仕事をしていて、学ばせていただきました。
-学校で子どもと関わるお仕事とは全然違う世界なんですね!教育庁から、また学校現場に戻られたんですか?
益田の小学校に教頭として赴任しました。今度は先生たちを応援する立場として、どういうことができるんだろうかと考える日々でしたね。アイデアはいっぱいあるけれど、自分の立場でこういうことを言っていいんだろうかと悩んだりもして。
でも、1回だけわがままを言って、新しい全校企画を提案したことがあるんです。月に一回、全校で遊ぶ企画。何をするかは月替わりで各学年が計画することにしたんです。当時流行っていたドラマのタイトルにちなんで「遊びをプロデュース」という企画名をつけました(笑)
全校企画や学校行事って、高学年が工夫してみんなを引っ張っていくという形式になりがちなんです。だけど、そういう体験を色々な学年の子にしてほしかった。そこで思いついた企画でした。構想を口にしているうちに乗ってくれる先生が何人か現れて、そこから実現まで組み立てていく過程も面白かったですね。
-名前にも遊び心があって、子どもたちが喜びそうな企画ですね!実際に企画をやってみて、子どもたちの様子はいかがでしたか?
3年生が6年生に教える姿が印象的でした。提案するのは中学年が知っている遊びが主なので、高学年もやったことがあるのか、遊びそのものはスムーズに進むんです。だけど、下の学年が一生懸命説明するのを、6年生も真剣な顔をして聞いている。「説明される役」を務めようと一生懸命なんです。その両者の表情がいいんですよ。中学年からは嬉しさがにじみ出ているし、高学年もなんだか楽しそうなんです。「お兄ちゃんお姉ちゃん」としての自覚を深めたとでも言うんでしょうか。自分が真剣に耳を傾けることで嬉しそうにする中学年の姿が、充実感につながったのかもしれませんね。
-素敵なエピソードをありがとうございました!
心の声を安心して口にできる場を
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-領家さんは、益田市で初めて、小学校で 「対話+」(※当時は「益田版カタリ場」。益田市教育委員会が実施する、卒業を控えた高校3年生とこれから中学生になる小学校6年生が1対1で対話し、これからの目標を考えるプログラム)を導入されたと聞いています。その当時のことについても教えてください。
県の教育庁に勤務していたときに、多世代を学校で集めて対話をする企画を視察して以来、対話的なプログラムをやってみたいとずっと思っていたんです。そこで、校長として吉田小学校に赴任したときに、当時の教育委員会と協力して、最初の現場を実施しました。
子どもたちに「悩んでいるのは自分だけじゃないんだ」と思ってほしかった。例えば中学校への進学を控えた高学年は、不安を抱いていることも多いんですよね。ネガティブなことって、「言ってもいいのかな」と、心にブレーキをかけてしまいがち。でも、そういうわだかまりこそ引き出したかったんです。腹を割って話せる年上の先輩と出会うことで、子どもたちが自分の心の声を言葉にできるような場、そして、受けとめてもらえた、応援してもらえたと思えるような場を作りたいなと、そう考えたんです。
-領家さんが大事にされている「一人一人の背景まで考える」ということにも通じると感じました。先生がつないでくださったご縁のおかげで、今では当時の小学生が高校生になり、「対話+」を届ける側になっていることも、感慨深いなと感じます。
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自分らしく生き、自分を好きになってほしい
-ぜひ、今のお仕事についても聞かせてください。現在、領家さんが就かれている教育長というのはどのようなポジションなんですか?
教育長というのは、教育委員会の担う全ての部署のとりまとめ役であり代表です。教育委員会の業務には、学校教育と社会教育の推進、そしてスポーツ振興、文化振興、文化財の保護といったことがあるのですが、それぞれに課長さんがいます。その課長さんたちのお仕事を、最後に責任もって統括するのが教育長の仕事です。
-なるほど…!普段はどのようなことをされているのでしょうか?
様々な現場に足を運んで挨拶をしたり意見を聞いたり、そこで働いている人の姿や表情を見たり……。風通しを良くして、みんなが気持ちよく仕事ができるような環境を作ることが主たる業務だと思っています。
教育委員会は、学校現場と密接に結びついているけれど、業務も環境も大きく違います。そこでは、それまで学校現場で「先生」をしていた人たちも、慣れない環境の中で一生懸命頑張っているわけなんです。だからこそ、みんなが気持ちよく仕事ができるよう目を配って、やりがいを感じられるように環境を整えたいんです。困っている人はいないかな、逆に生き生き仕事してる人がいたらちょっと話聞きに行ってみようかな、といったようなことを、いつも考えています。
-慣れない仕事を前に頑張っているとき、それを見て褒めてくれる人、応援してくれる人の存在を感じられたら、とても励みになるような気がします。そんな教育長の領家さんから、最後に、益田の10代の子にメッセージをお願いできますか。
自分の好きなことや自分の良さを見つけてほしいです。面白いと感じたことを、自分らしく追いかけ、そんな自分を好きになっていってほしい。それが一番の願いです。
あとは、益田のことを思い続けてほしいですね。この地で学び育った子どもたちの心の片隅に、益田という場所が残っているといいなと思っています。もちろん、益田のことが好きで帰ってきた、益田で活躍している若者がいる、ということもとても喜ばしいことだと思います。ですが、ふるさとを思うのにも、自分らしくて居心地のいいやり方というものがあるんじゃないでしょうか。だから、その人らしい関わり方のようなものを見つけて、その形で益田とつながり続けてくれたらそれでいい、と。この年になってそんなことを考えるようになりましたね。
-貴重なお話、ありがとうございました!
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文責:益田市連携のまちづくり推進課
文章:一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー