恩師のライフキャリアシリーズでは、益田市でいきいきと生活されている高校教員の方を紹介し、自分なりの豊かな暮らしについて考える機会をお届けします。
今回紹介するのは、益田翔陽高校の佐々木先生です。
島根県立益田翔陽高校は、2006年に島根県立益田工業高校と島根県立益田産業高校が統合してできた新しい学校です。電子機械科、電気科、生物環境工学科、そして総合学科を有した島根県初めての複合型専門高校であり、また県内最大の広いキャンパスを持っています。高校の詳細は、こちらからご覧ください。
野球に打ち込んだ益田での暮らし
-まず最初に、簡単に自己紹介をお願いします。
佐々木駿です。現在は益田翔陽高校で英語を教えています。
三宅町出身で、小学校は益田小学校、中学校は益田東中学校に通っていました。
高校は益田高校へ、その後は兵庫県西宮市にある大学へ進学し、卒業後は西宮で6年間教員をした後に昨年益田へ戻ってきました。
-ありがとうございます。
益田にいた頃はどんな子どもでしたか?
とにかく野球に明け暮れていましたね。
二つ上の兄の影響で、小学校1年生の頃からずっと野球をやっていました。
あとは、高校1年生の頃から教員に憧れていました。
1年生の担任の先生が英語の先生で、とても厳しかったのですがその分とても熱心な方でした。
授業もとてもわかりやすく楽しくて、成績もみるみるうちに伸びていったことを覚えています。
クラスのことも授業のことも妥協されずに取り組む姿勢に憧れて、自分も教員になりたいと思うようになりましたね。
-そうだったのですね。
卒業後はなぜ西宮の大学へ進学をしようと思ったのですか?
本当は国公立大学志望だったのですが、前期の試験で第一志望の大学へは落ちてしまいました。
中期・後期の試験では、島根大学と山梨にある国公立の大学には合格したのですが、最終的にどこに行こうかと悩んだときに、どうせなら関西に住んでみたいなと思ったんですよね。
というのも実は母が関西にある大学に通っていたということもあって。
「いいところだよ」ということもずっと聞いていたので、兵庫県の西宮にある私立の大学の文学部英文学科へ進学することに決めました。
「先生のおかげで今がある」という言葉に救われた
-関西での大学生活はいかがでしたか?
とても住みやすかったですし、楽しかったですね。
これはたまたまなのですが、ちょうど甲子園球場がある街だったので、高校野球もプロ野球も毎年見にいっていました。
あとは、野球のサークルに入り、塾の講師やコンビニでのアルバイトをしていました。
地元で教員になりたいという気持ちが強かったので、大学3年生ぐらいからは勉強も進めていきました。
当時憧れていた先生といつか一緒に働きたいと思っていましたし、あとは単純に地元が好きなので、地元に帰って教員になりたいという気持ちも大きかったですね。
ただ、島根県の教員採用試験は二次試験で不合格になってしまって。
兵庫県の試験には運良く受かっていたので、このまま兵庫で教員になるか島根で非常勤講師として働くかで悩み、「もう少しこっちで頑張ろう」と兵庫で教員になることを決めました。
-そうだったのですね。いざ教員になってみて、印象に残っている出来事などありますか?
大学を卒業してすぐ、右も左もわからない中、いきなり2年生の担任を持つことなりました。
受け持ったクラスの中に、様々な事情があって1年生の後半からなかなか学校へ来られなくなってしまった生徒がいて。
どうしても高校は単位が取れないと卒業が難しくなってしまうので、電話をかけて話をしていたのですが、結局転学せざるを得なくなってしまいました。
自分としては「卒業させてあげることができなかった」とずっと気にかかっていたのですが、その代の生徒たちが先日成人式の飲み会に誘ってくれて、久しぶりに再会したんです。
その時に「結局自分は高校を辞めてしまったけれど、先生が色々やってくれたから今がある」と言ってくれて。
そんなふうに思ってくれているとは全く思っていなかったので、嬉しかったですし救われた気持ちになりましたね。
教員になってからは、自分が何かを教えてあげたというよりも、こういったかたちで生徒に救われる瞬間のほうが多いように感じています。
のんびり過ごすために、暮らしの拠点を田舎におく
-昨年、益田へ戻ってきたきっかけは何かありますか?
西宮での教員生活が6年経ったのでそろそろかなという気持ちだったことと、あとはコロナ禍だったということも理由のひとつでした。
兵庫県も6月頃まで学校が休校になったので、今後の自分について考える時間がたくさんあったんですよね。
他県の教員になるにはもう一度教員採用試験を受け直す必要があるのですが、大阪で島根県の一次試験が受けられるようになっていたので、受けてみることにしました。
そして運良く合格することができたので、益田へ戻ってくることができました。
-そうだったのですね。
久しぶりに帰ってきて、何か気がついたことはありますか?
それこそ僕らが高校生のときは、ユタラボさんがやっているようなカタリ場の授業などはほとんどありませんでした。
まずは大学に行ってから考えなさい、という風潮だったので、自分の人生について考える機会が増えているのは良いことだなと思います。
もし当時そういう機会があったら、夢が変わっていたかもしれないし、今教員をしていないかもしれませんね(笑)
-確かに、今お話をお伺いできていないかもしれないですね。
また、お休みの日はどのように過ごされていらっしゃいますか?
社会人になってから自転車にハマって、ロードバイクとクロスバイクを1台ずつ購入しました。
兵庫にいたころは、西宮から京都まで120kmぐらいを7,8時間かけて往復したりしていましたね。
益田に戻ってきてからはなかなか遠くまでは行けていないですが、日本海沿いなどを走るのは気持ち良いですね。
中学の頃の野球部の友達は、益田に残っていたり、戻ってきているメンバーも多いので、一緒にご飯に行くこともありますね。
職場も若い先生が多いので、ご飯に行ったり遊びに行ったりすることも多いです。
一番仲が良い先生とはこの前一緒に大阪旅行に行って、関西を案内しました(笑)
逆に、関西で働いていた頃の同僚が実家に泊まりに来てくれたこともありましたね。
「もう一回いきたい!」と言ってくれて、2回も来てくれました。
お魚やご飯が美味しかったようです。
あとは、本や漫画を読むのも好きですね。
父親が漫画好きで、家にもたくさん漫画がありました。
途中で集めるのをやめてしまったようなのですが、それでも「こち亀」が150巻ほどあって。小さい頃からよく読んでいます。
-素敵なおやすみの過ごし方ですね。
益田に戻ってきて暮らしの面で何か変わったことはありますか?
そうですね、もともとマイペースなところがあり、のんびり過ごす時間を大切にしたかったので、そういう意味では兵庫にいた時よりも理想の暮らしができているかなと思います。
もちろん都会のほうが便利だなと思う瞬間もありますが、僕らが高校生の頃に比べて今はスマホを始めITツールがかなり充実しています。
欲しいものがあればインターネットで購入できますし、行きたい場所があれば旅行で訪れることもできます。
そういう意味でも、暮らしの拠点を田舎におくことで、心にゆとりを持って日常生活を送れていますね。
その他だと、生活リズムも変わったように感じます。
これまでは夜型だったのですが、益田だと夜が本当に静かなので、22時頃には寝て6時頃に起きるというような生活に変わりましたね。
ゆくゆくは母校で教員をしたい
-これから先、益田でやってみたいことはありますか?
仕事の面では、ゆくゆくは母校で働いてみたいですね。
自分が高校生だった頃の話も生徒に伝えたいなと思います。
島根県内の他の県立高校を経て、何校目かで母校に戻ってこられたらいいなと思っています。
同級生で教員になっている人もいるので、そういった人たちとも一緒に母校で働いてみたいですね。
また、もし将来母校の先生になれたら、同級生の子供を預かって教えたいですね。
三者面談も同窓会みたいになって楽しいだろうなと思います(笑)
-同窓会みたいで素敵ですね!
益田出身の先輩として、益田で育って、一度進学のために外に出る生徒さんたちにメッセージを伝えるとしたら、何を伝えたいですか?
外の世界は絶対に見たほうが良い、と伝えたいですね。
都会で暮らしてみるのもそうですし、旅行で海外に行くなどでも良いと思います。
僕自身、今でも留学をしておけばよかったなと思うので、時間があるときに色々な場所へ足を運ぶことは大切だと感じています。
自分の中に比較できる対象を増やせるのは、大学生や時間がある時だと思っているので、是非色々な経験をしてたくさんの人に出会ってほしいですね。
僕も西宮での生活があったからこそ、今の暮らしが好きなんだと思えた部分も大きかったので。
-なるほど。最後に、プライベートの面では何かありますか?
まだ結婚はしていないのですが、これから先結婚して子育てをすると考えたら、益田に家を建てたいですね。
願わくば、自分の子供にも益田小学校や益田東中学校に行ってもらえたら嬉しいです。
-確かに、母校に通ってくれたら嬉しいですね。
貴重なお話ありがとうございました!
取材:一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー
文責:益田市連携のまちづくり推進課