恩師のライフキャリアシリーズでは、益田市でいきいきと生活されている教員の方を紹介し、自分なりの豊かな暮らしについて考える機会をお届けします。
今回紹介するのは、益田養護学校の下地美桜奈先生です。
島根県立益田養護学校は、小学部・中学部・高等部を設置している特別支援学校です。2000年に、益田圏域の保護者の方々の強い願いと祈りと運動のもと生まれた学校で、「地域とともに、自立と社会参加を目指し、児童生徒を育成する学校」「地域の特別支援教育を推進していく学校」をスクールミッションとしています。高校の詳細は、こちらからご覧ください。
サッカーに明け暮れた学生時代
–本日はよろしくお願いします!最初に、これまでのご経歴を教えていただけますか。
下地美桜奈です。益田養護学校で体育を教えています。益田生まれで、中学まで益田で育ちました。小学生の頃から続けていたサッカーでもっと高みを目指したいという思いから、高校は新潟にある帝京長岡高校に進学しました。
– 新潟の高校に進学されたんですか!?サッカーをするために?
はい、女子サッカー部に力を入れていて、なでしこジャパンとも縁のある学校です。高校卒業後は、山口の徳山大学で教員免許の取得を目指しつつ、サッカーも続けました。社会人一年目は、東京の日本女子フットサルというリーグのチームに所属していました。女子のフットサルチームの中では最高峰のチームです。そこで現役選手としてプレーしていたのですが、膝の故障を機に、プロフットサル選手としての現役を引退することにしたんです。これまでとは違う形でサッカーに関わりたいと考えるようになり、益田に帰ってきました。
–中学卒業と同時に益田を出て、新潟、山口、東京と生活の拠点を移して、再び益田に戻って来られたんですね!
ここからはちょっとさかのぼって、小学生・中学生だった頃の益田での生活について聞かせていただけますか?
ずっとサッカー中心でしたね。小学校3年生からヨセフFCでサッカーをし、中学生になるとボアソルテ美都に所属しました。中学校のサッカー部に入るという選択もあったのですが、選手登録の制度上、サッカー部とクラブチームの両方に所属することはできなかったので、個の力をつけたいと思いボアソルテを選んで3年間サッカーをしました。
当時、益田の中で、女子サッカーをしている同い年の子はいませんでした。ずっと男子の中で、女子1人でやっていたので、しんどいと感じることも正直ありました。それでも、負けたくない思いが強く「頑張りたい」ととにかく思っていました。
–次に新潟での高校生活についてもお話しいただけますか。
中学校までは同学年に女子が1人という環境でサッカーをしてきたので、高校入学後、「女子サッカー部」として一緒に過ごしたチームメイトとの関係はとても濃いものに感じられました。お互いにちゃんと言いたいことを口に出して伝え合うことができたので、3年間の学生生活で仲が深まっていきました。今は、住んでいる地は離れてしまいましたが、お互いの中間地点で待ち合わせて、時々会うこともあります。
–新潟から山口の大学に進学されたのはどのような理由だったのですか。
高校で教育実習生の姿を見たり、顧問が指導する姿を見たりしていて、人に教える仕事って良いな、と感じていたんです。また、自分自身が高校で全国大会に進出できなかった悔しさがあったので、大学でも全国に出場出来る強豪レベルでサッカーをしたいと考えていました。たまたま徳山大学には地元が同じの2歳上の女子サッカーの先輩もいたので、「また一緒にサッカーがやりたい」という気持ちにも後押しされてこの大学に決めました。
大学時代には、人に教えることへの興味から、中高の保健体育の教員免許を取得しました。
また、サッカーにおいても、1年生のときから全国大会に出場し、充実した4年間を過ごすことができました。
–サッカーを続けつつ、人に教えることにも興味を抱いて学ばれた大学生活だったんですね、全国大会に出場できなかった、というところ、悔しさが伝わってきました。高校時代の大会での思い出について、もう少しうかがってもいいですか?
はい、もちろんです。でも本当に、今でも悔しいんですよ。高校入学時は、まだ女子サッカー部が設立してからそこまで経っていない頃でした。新潟の高校ですが、新潟出身者はあまり多くはなく、日本全国からサッカーをしたいという強い思いを持った仲間たちが集まっていたんです。
その仲間たちと「全国に絶対に行こう」と練習に励んでいました。
3年生最後の公式戦となる冬の選手権大会で、決勝戦まで勝ち進み、最後の試合もスタメンとして出場していたのですが、その時は1対0で勝っていたんです。このままなら勝てるという思いでいましたが、後半の途中で自分が交代した直後、5分も経たないぐらいのところで失点して1対1に。延長戦でも決着せず、PK負けに終わりました。結果への悔しい気持ちももちろんありますし、自分が交代した後のできごとだっただけに、まだできたのにどうして下げさせられたんだと思って悔しくて。
故障をバネに・サッカー指導者の道へ
–そうした悔しさから、大学でもサッカーを続けてらっしゃったんですね。次に転機が訪れたのは就職の時になるのでしょうか。進路を決める上で、どんなことを考えていたのですか?。
そうですね。小さい頃は「なでしこジャパンに入る!」と言ってプロを目指していたのですが、レベル的にも自分はそこまでではないなと思っていたのと、大学1年生のときに左膝前十字靭帯断裂で手術をしたんです。それからは、前の自分とは違うプレーになるし、うまく元に戻らない状態の方が長かったです。サッカーを続ける選択肢や声がかかっているチームもありましたが、高校の男子サッカー部の先輩がFリーグ(日本フットサルリーグ)で活躍をしていたり試合を見たときに楽しそうだなと思い、それなら観点を変えて、フットサルをしてみるのはどうかな、と思ったんです。そこで、卒業後はプロフットサルのチームに所属する道を選びました。
–プロチームに所属していた社会人1年目、東京ではどのような生活をされていたのでしょうか。
フットサルチームのスポンサー企業でフルタイムの事務職をしていました。平日は普通に8時間の勤務をし、仕事が終わった後、19時半から21時半まで練習をする生活です。遅いときは21時半から23時半まで練習をすることもありました。土日は公式戦とか練習試合に出かけていたので、プライベートの時間はほとんどないくらい、フットサルに明け暮れていましたね。
–その後、先生として益田に帰って来られたわけですが、東京でプロスポーツの選手として練習や試合に励む生活と益田での教員生活は全く違うように思います。どうしてプロスポーツの世界からあえて益田に帰ってこようと考えたのか、その経緯について詳しくお聞かせいただけますか。
大学時代に左膝を手術していたのですが、2022年の11月、今度は右膝の前十字靱帯断裂になりました。それから4ヶ月くらいこれからのことを迷ったのですが、2回の怪我を経て、今後も現役を続けるとしても、もしまた怪我をすることがあったら正直怖いという思いがありました。
それならばプレーヤーではなく、益田で指導者として、「人に教える立場でサッカーに関わりたい」と考えるようになりました。そこで、小中でお世話になった先生にサッカー指導者として関わる機会をいただけないか相談し、益田に帰ってきました。
–サッカー指導をするだけなら、他の地で、という選択肢もあったように思われますが、どうして益田に帰ることを選ばれたのでしょうか。
そうですね。サッカーを教えるからには、地元益田の子どもたちにサッカーを楽しんでもらい、益田のサッカーレベルを上げていきたいと思ったんです。他の地域と比較したときに、島根や益田はまだまだ弱いように思います。だったら、これから益田から強いチーム、強い選手を輩出することでレベルを上げていきたいですし、益田の子どもたちに上位を目指して到達する経験をしてほしいなと思って。自分がそこまでたどり着かなかった人間だったので……。
「益田から上を目指してほしい」と思ったんです。その思いから益田を選びました。
「楽しい」が「好き」へ そして「幸せ」へ
–幼少期からずっとサッカーをされていた下地先生ですが、成長とともに自分の中でのサッカーへの思いや位置づけには何か変化があったのでしょうか。
大きく変化したと思います。サッカーを始めたての小さな頃は、ただ楽しいからやっていたんですけど、「楽しい」が「好き」に変わって、好きをもっと追いかけたいなっていうのが中高生のときでした。高校で「好き」と「悔しさ」が混ざった結果、大学での負けたくないという思いがもっと出てきたのかなって思ったり。
楽しいから始めたことがどんどん好きになって、というのは、自分にとって素敵なことだったなと。「楽しい」が「好き」になって、「好き」という気持ちがさらに「幸せ」になるなって。スポーツと恋愛は似てる感じがあるって勝手に思ってるんですけど、やっぱり片思いが実ると嬉しいじゃないですか。それがたぶん、自分にとってはサッカーだったんです。
–サッカーが嫌になったり、「やめたい」と思ったりしたことはないんですか。
正直、中学の時はありました。男子の中でのサッカーで、私の学年の女子は私1人だったんです。2学年上と2学年下にはそれぞれ2人女子がいたんですけど、私が中学2年生になった年には、チーム全体の中でも女子が1人だけになってしまって。私の居場所があるのかなって思ったりもして。サッカーが好きだから続けられましたが、悔しい、苦しいときというのは、何回かはありました。
–それ以降は、「悔しい」と思うことはあっても、「やめたい」と思うことはなかったと。
なかったですね。膝を怪我して、「復帰できるのかな」という心配はあったんですけど、それ以上に、怪我で周りにおいていかれるという不安の方が大きかったです。とはいえ、いざ復帰したらうまくいかないことも多くて、もとのプレーも出来ないし、やっぱりどこか、また怪我しないようにセーブしてやってしまうので、本当にこれでいいのかなと思ったりもしました。
それでもサッカーが好きだからどのような形であっても続けたいという思いの方が強かったので、やめたいとは一回も思いませんでした。
–サッカーを通して学んだことや成長したと思うことはなんですか。
高校が節目だったように思います。中学校卒業までは親元にいたのですが、高校に進学したタイミングから寮生活が始まりました。寮生活は自分たちでなにもかもしないといけないので、私生活の部分でも自立できたなと思います。
また、自分の内面も成長したように感じます。高校サッカーを通して、言いたいことをはっきりと言えるようになりました。もともとは、言いたいことを言えないままため込んで爆発するタイプでした。中学までのサッカーチームに女子1人という環境では、どうしても言いづらい部分、こちらが萎縮してしまう部分もあり、また、男子の方もこちらに遠慮があったのではないかと感じられることがありました。
でも、高校で女子チームに所属するようになってからは、お互いに言いたいことを言っても、それを受けて相手の思いもちゃんと伝えてくれる安心感があって。今はそんな高校生活が影響したのか、教えているときも友達との会話もはっきり伝えないと気が済まない性格になりましたね(笑)
何もないからこそ自分たちの手で
–最後に益田の10代の子どもたちにメッセージをお願いします。
自分も小さい頃は、益田を何もない町だと思うことがありました。でも、「何もないからこそ、自分たちの頑張り次第で何もかもがある世界になれる」って、今は考えています。
自分にとってはサッカーが益田に戻る理由にもなったんですが、サッカーに限らず益田という地域に、どういう形でもいいので多少なりともつながってくれていたら、そこが帰る原点になるのかなって思います。
もちろん、都会に行くという考えもあると思います。ただ、都会にでて、もし「しんどいな」と感じたら、一度帰ってきてみるのもいいんじゃないかなと思います。自分は都会の人の多さに萎縮するタイプだったので、毎朝満員電車に揺られたり、人の多さが気になったりしていました。そんな時、益田に帰ってきて、自然が豊かだし、リフレッシュできたんです。
そんなときに、きっかけはリフレッシュでもいいので帰ってきて、「あ、益田ってやっぱり何もない。でもそれが逆によかったんだな」って思ってもらえたらいいんじゃないかと。それから戻ってきた若い人たちで、何もないなら一から作っていこう、という動きを少しずつ起こしていったら、益田の生活を楽しんでいけるんじゃないかなって勝手に思っています。何もないからこそ、自分の気持ち次第だなと思います。
–一度益田を出たからこそ、益田の見え方が大きく変わることもあると思います。
そういった子たちにとって、とても大切なメッセージですね。
今日は、貴重なお話をありがとうございました。
文責:益田市連携のまちづくり推進課
文章:一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー