大学生インタビューシリーズでは、益田市でいきいきと暮らしている大学生を紹介し、自分なりの豊かな暮らしについて考える機会をお届けします。
今回紹介するのは、大学時代を島根県益田市で過ごし、現在は東京都立大学大学院に通っている
松川雅美さんです。
住んでみないと分からない
-最初に、簡単に自己紹介をお願いします。
松川雅美です。高校卒業までを大阪で過ごし、大学進学を機に島根県浜田市に引っ越しました。
大学2年の時から3年間は益田に住み、今は東京で大学院生をしています。
-どのような経緯で島根にきたのですか?進路選択など、高校時代のことから教えてもらえると嬉しいです!
私は中高一貫の進学校に通っていたので、高校生活は中学校の延長でした。6年間友だちはずっと一緒、所属していたバスケ部でもずっと同じメンバー。学校の勉強がしんどい時期があったり、周囲との価値観があまり合わないと感じたりしたこともあって、高校1年生の冬に部活を辞めたのですが、それからなにか新しいことをしたいなと考えるようになりました。
それで高校2年生の夏、日本各地、さらには世界各国から同じ世代の学生が来るサマースクールに参加したんです。そのときに出会った高校生の姿に、すごく影響を受けて。「病院でボランティアしてます」とか、「学生団体やってます」とか、自分から行動している高校生が多かったんですよね。「あ、高校生にも、そういう選択肢ってあるんだ」と思って、それ以来、高校生が参加できる課外活動に積極的に参加したり、自分自身の地域でイベントをやったりするようになりました。
-その活動を通して島根のことも知るようになったと。
そうですね、当時出会った友達の中に、地方の高校生が多くいて、「電車は1時間に1本しか来ないよ」とか、地元のことを話してくれたんですけど、当時の自分にとっては信じられない世界だったんです。聞いているうちに、なんだか住んでみたいな、という思いがわいてきて。また、当時教育関係の方から、島根県は面白いよ、と聞いていたんです。
それで島根県に興味を持つようになって、総合政策学部であれば学べる学問の幅も広いかなと考えたので、島根県立大学の総合政策学部に進学しました。
-それで浜田で暮らすようになったんですね!
はい、やっぱり住んでみないとわかんないだろうなっていう好奇心があって、それが島根県っていう場所を選んだきっかけですね。
-浜田から益田にいらっしゃったのはどうして?
初めは寮生活を送っていたんですけど、大学の寮は1年生しか住めない決まりになっていたので、2年生からどこで暮らそうって考えていたんです。ちょうど家を探し始めた頃、益田で、現・一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー(以下、ユタラボ)代表の檜垣さんに出会ったんです。当時はまだユタラボは無かった頃ですが、「来年から地域づくりや社会教育を推進する団体を立ち上げるから一緒に何かしてみない?」って提案されたんです。
益田に住んでユタラボに入ったら、浜田の大学のキャンパスにも通えるし、面白い大学生活を送れそうだなと思ったので、「ぜひお願いします」ってお返事しました。
-大学のある浜田市ではなく隣の益田市に住む学生は珍しかったんじゃないですか。
その選択によって津和野との関わりや益田との関わりを深めていったんですね。
かなり珍しいと思います。その後、わたしは益田の中でも、二条地区という中山間地域に住むようになりました。大学生で、一軒家の空き家を借りて生活しているのも、多分すごく珍しいと思います(笑)
二条の家に住むようになったのも、ユタラボで地域づくりのお仕事の関係で、二条の担当になったことがきっかけです。地域の方へのインタビューや、高校生に地域と関わるきっかけをつくるプログラムを一緒につくったことを通して、二条の人とたくさん知り合えたんです。
そこから二条がすごく好きになって、「二条すごく良い場所だな」とか「空き家があったら住みたいな」とか、ことあるごとに口にしていたら、空き家が出たよって情報を伝えてくださる方がいたんですよ。内見もせず、家賃の話も聞かず、なにも考えずに「住みます」って即答しました(笑)その後、小学校のボランティアハウスに言って地域の子どもたちとも交流するようになり、小学生や親御さんをはじめ、どんどん知り合いが増えてって、つながりが少しずつできてきました。
地域で一緒に祭りを作る・「ふれあい祭り」が復活するまで
近所の人には、困ったとき、たとえばムカデが出たときとかに助けてもらったり、お裾分けをいただいたり。とてもあたたかくしてもらいました。
あとは、小学校でやっている「ボランティアハウス」という子どもたちと交流する機会にも週1回呼んでもらっていましたね。
-そういうところから関わりが生まれ、地域活動でも頼りにされるようになったと。
そうですね、週1で必ず小学校に行く、みたいに地域に関わるリズムができて、関わりが形成されていったのは大きかったなと。当時は、お休みの月曜日は、二条の活動に参加すると決めていたんです。となり近所だけじゃなくて、少し足を伸ばして、小学生や親御さんに会ったり、公民館にも顔を出したりするようにしていました。そうこうするうちに、ふれあい祭りという地域のお祭りの実行委員にならないかと声がかかって、お祭りの実行委員もやりましたね。
-ふれあい祭りについて、詳しく教えていただけますか?
以前二条では、「ほたる祭り」と「ふるさと祭り」が、それぞれ6月と11月に開催されていました。コロナ禍までは、年に2回お祭りをやっていたんです。でもコロナ禍で2年くらい中止を余儀なくされて、それまでお祭りを引っ張ってきた方たちのなかに、「もう無理かなあ」っていう空気が流れてしまっていたんです。
そこで、「じゃあもう若い子たちに任せてみない?」っていう提案が出たそうなんです。それでできた会が、のちに、ふれあい祭りの実行委員会になるわけなんですけど、当初は祭りの実行委員会と言うより、お祭りをやるかどうかというところから話し合う会でした。地域の若者が集められて、私が最年少、上の世代も60代くらいまでのメンバーで、毎月話し合いを重ねてきました。
話し合いの中で、お祭りをやりましょうという声が上がってきて、でも、これまでと同じ形で続けていくのはきついという意見もあり・・・・・・。住んでる地区の人が元気になるお祭りにするには何ができたらいいのか、無理なく続けるためにはどういう規模でやったらいいのか、整理してきました。少なくとも1年以上かけて話し合いを続け、ようやく開催につながったんです。
-1年以上も!そこまで検討を重ねたうえで、今のふれあい祭りがあるんですね。
長期的に会議や運営に関わるなかで、気持ちの変化などはあったのでしょうか?
もともとは楽しいことをやりたい気持ちや、会議に出るたびに新しい人に自分を知ってもらえることへの嬉しさが大きかったですね。また、地域コミュニティがどう形成されていくのかということに関心があったので、その観察だと思っていたところもあります。様々な人がそれぞれに思いや主張をもっていて、そのなかでどのようにして合意形成がされていくんだろうか、この人にはどういう背景があって、どういう思いを地域につぎ込んで、なにを実現させたいのか、といったことを会議で感じられるのが楽しくて。
祭りをやると決まってからは、みんなのモチベーションも高まって、私も自分にできることをやろうという思いがどんどん強くなりました。実行委員の中には仕事の空き時間に会議の要旨をまとめたり、お祭り開催のための連絡や調整にあたったりと、精力的に活動される方も多く、元気をもらっていました。私は学業や他の仕事との兼ね合いもありましたが、チラシ作りをしたり、当日の動きを一緒に確認したりしていました。
このお祭りは、わたしが益田を離れた後も続いているのですが、今年もこのお祭りに参加するために、東京から帰ってきました。それくらい、わたしにとって大切なお祭りなんです。
益田で見つけた“次の道”
-もともと地域コミュニティへの興味があり、さらにお祭りの開催という目標に向かって委員会が動き出すなかで、やりがいや楽しさが加速していったんですね。現在は東京で大学院生をされている松川さんですが、その選択にあたって、二条での暮らしはどのような影響を及ぼしたのでしょうか?
そもそも、はじめは大学院への進学なんて考えていなかったんです。なにも考えてなかったというのが一番近いかもしれません。このままなんとなく就職はしたくないけど起業をしたいわけでもない。大学の勉強は楽しかったし、気になったことをとことん調べるのは嫌いではなかったけれど、大学院に行きたいかって言われると、そんなこともないかなっていう。それが、二条での生活を通して変わってきました。自分のなかの問題意識が具体的になり、研究対象としてこのテーマともっと向き合いたいという気持ちが芽生えていったように思います。
-二条での生活のなかで、大学院で研究したいテーマが浮き彫りになってきたんですね!
「問題意識」というとどのようなことでしょうか。
二条に住んで、私が一番びっくりしたのは、ご近所さんとの距離感です。住んでいた家自体が、入居者の入れ替わりが頻繁にあったから慣れていたというのもあったのかもしれませんが、皆さんあまりにもスムーズに迎え入れてくれて。
地方移住でミスマッチがあって、結果、移住者がいられなくなって出て行っちゃうみたいな話も、ときたま聞くことがあります。でも、二条での生活は、本当に居心地が良かったし、二条の皆さんは、干渉もしすぎないけど放置もしない、私にとっては本当にいい距離感で付き合いをしてくれました。
だから、端的に言えば、「どうしてこの人たちはこんなに優しいんだろう?」って、考えてみたくなったんです。よそからやってきた移住者を受け入れるという、異質なものを受けとめる力ってどうやってできていくのかなって。地区でやっているお祭りや公民館の活動とも関係しているんじゃないかという仮説も肌感覚としてはあるのですが、大学院ではその仮説をデータで説き明かしたり、言語化して発信したりできるようになりたいと考えていて。それが問題意識であり、今の進路を選択するに至った思いです。
色んな暮らしを身近に感じて
-お話を聞けば聞くほど、二条での生活が進路選択や研究主題の設定に大きく影響したと言うことが伝わってきます。進学に際して東京に引っ越されたわけですが、二条から離れがたかったりしませんでしたか?
地域のことを知りたいのに、あえて県外にでるという選択について、今も葛藤はあります。でも、やっぱり研究する上でのスキルを磨くために、自分が取り組みたい分野のデータをどう扱って結果を出すか、その手法に強い大学院に進学したかったんです。それに、地域コミュニティの研究をするときに、そのコミュニティに自分も入っているのと、外から客観的に見るのとでは、得られるデータや結果が変わってくる可能性がある。私は1回客観的に地域を見つめたいと思ったから離れることを選択しました。とはいえ、全く見ず知らずのコミュニティを研究対象としたいわけでもないので、今も関わり続けて定期的に二条には訪れています。もちろん、単にこのコミュニティが好きで関わり続けたい、というのが前提なのですが。
-そういった思いで、今も益田や二条に関わり続けているんですね。
私は益田での生活を通して、「暮らし」というものに目を向けることが増えたように感じています。東京にいると「ほかの人の暮らし」がなかなか見えてこないけど、ここにいたらそれを感じられる。様々な人がどんな暮らしをしてるのかを地域のなかで身近に見ることができるのはいいなと思います。自分が今、こういう生活がしたいと思う理想像も、やっぱり益田で出会った人が一番多いかもしれないと思っています。
-貴重なお話ありがとうございました!
文責:益田市連携のまちづくり推進課
文章:一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー