2024年2月22日 (木)

益田のひとづくり仕事,働くひと生きがい

「恩師のライフキャリア」高津中学校 田原俊輔先生

恩師のライフキャリアシリーズでは、益田市でいきいきと生活されている教員の方を紹介し、自分なりの豊かな暮らしについて考える機会をお届けします。
今回紹介するのは、高津中学校の田原俊輔先生です。

益田市立高津中学校は、1級河川高津川下流の平野地帯を中心に、須子、高津、飯田地区を校区とする公立中学校です。高津地区には柿本人麿神社の門前町として、また、津和野藩の外港として栄えた歴史があり、伝統文化が地域住民の手で継承されてきました。

地域の方ともに、健やかで心豊かな生徒を育もうという理念から、高津中学校は、「自ら学び、心身ともに健康でたくましく生きる人間性豊かな生徒の育成をめざす」を教育目標に掲げて日々の教育活動にあたっています。

今回は、益田出身の田原先生が、どのようなライフストーリーを歩んでこられたのか、お話を伺いました。

年齢を超えみんなで笑い合った子供コミュニティー

-最初に、自己紹介とこれまでのご経歴を教えていただけますか。

田原俊輔です。高津中学校で保健体育を教えています。専門種目はサッカーで、島根県サッカー協会の指導者という立場で、勤務校以外の小中学生にも指導をしています。サッカーの面白さや、サッカーを通して心身の成長を感じてほしいと思い、活動をしてきました。今の職場に異動となる前は、5年間、益田市教育委員会で派遣社会教育主事を務めていました。学校教育と社会教育(学校以外の学びの場)の橋渡しをするため、教員がその専門性を活かしながら自治体の教育行政に関われるように設けられたポストです。派遣社会教育主事時代には、大人と子どもが1対1で対話する授業「対話プログラム「対話+」」をはじめ、多様な大人と子どもたちが出会い、地域全体をフィールドに活動をする「ライフキャリア教育」プロジェクトに関わってきました。

-社会教育主事としてお勤めだった頃から今に至るまで、地域で新しい連携や協働につながるような実践を重ねていらっしゃった田原先生。面白いことをやろうと周囲を巻き込んでいく方という印象が強いですが、小さい頃からそうだったんですか?

幼少期から変わっていないところは、「協調性がない」とよく人から評されるような性格かな、と思います(笑)保育園の連絡帳から、小中学校の通知表所見に至るまで、書かれていることは必ずそれで。人と同じことをやることへの抵抗感が昔からあるんです。子どもの頃なんて特に、自分がやりたいようにやりたいけど、親や先生は「これはやっていい」「あれはダメ」とかはっきり言ってくる。そういうことへの反発心がとても強い、大人からすれば面倒な子だったと思います。
「やれ」と言われたらやらない、「やるな」と言われたらやる、みたいな(笑)

そんな子でしたけど、幼少期はいろんな人に関わってもらったおかげで楽しくやっていました。
近所の子どもたちで一緒に遊ぶことが多くて、5つくらい年上の兄ちゃん姉ちゃんから、3つくらい下の子までで集って、褒められることも叱られることもあれこれしていましたね。学校とか家ではできないこと、させてもらえなかったりすることは、兄ちゃん姉ちゃんに教えてもらってやってみたりとか、自分より小さい子に教えたりとか……。それが、自分にとってとても楽しく大切な時間でした。

-日常的に年齢を超えて一緒に遊んでいた感じだったんですね。中学時代は、どんな子どもでしたか?

大人への反発心がエスカレートしてきて、突っかかってばかりの中学生時代でしたね。大人が言ってくることに対して、真っ向から「嫌だ」というと意見がつぶされるから、いかにやる必要が無いか、やりたくないかということを準備して大人としゃべったり、意図的にしゃべらなかったり。自分に関わっていただいた先生方からすると、「なんだこいつ」みたいな感じだったんだろうな、と思います(笑)当時は自分自身でも、「俺なんでこうなんだろう」と少し悩んだこともありました。「俺なんでこんなに言うこと聞かないんだろう」って。

大人とぶつかりながら、自分の輪郭を確かめてきた

-大人に言われたとおりにしようとする子も多いとは思いますが、田原先生は、自分のやりたいことを絶対に曲げたくない中学生だったんですね。何か背景があったのでしょうか。

最近になって思うようになったのですが、あの頃の反発って、自分がどんな人間なのかを知りたかったからなんじゃないかなという気がします。大人に反抗して、相手の反応をうかがって、さらにそれに反応する、みたいなことをする中で、この人にとって見える自分とか、あの人にとって見える自分とか、そういったものを探ろうとしていたのかもしれないと。

自分でも変なやつだと思うけど、自分の考え方って間違ってないかとか、自分って客観的にどう見えているのか、自分はこの場に必要なのかどうかとか、そういうことを確かめたかった。「間違ってないですよ」「あなたが必要ですよ」って言われたとしても、言葉だけだと信用できない気がして、大人とぶつかって、リアルを体感しながら、確認していたのかなと思います。

-大人になった今だからこそ分かる、といった感じでしょうか。そのように考えられるきっかけがなにかあったのですか?

派遣社会教育主事としての日々だったと思います。ここ10年くらいで、多様な方々といろんな活動をすることが増えていて。その日々を振り返ると、以前より自分自身と周囲の境界線というか、自分の輪郭みたいなものがはっきりしてきたように感じるんです。協働しようとする中で、他者と価値観がぶつかることもあるけれど、その経験を通して、自分は何についてどんな考えをもっているかということが、以前より明確に自覚できるようになってきました。現在でも、共に過ごしている小学生や中学生も含めて、自分以外の他者と接するときに、「この人たちから見える私の姿はどういうものだろう」と考えている部分もあるんです。このように、自分自身が「何者であるか」を丁寧に確かめながら、いろんな方々の影響を受けながら、様々な活動をしてきています。

-中学時代は大人に対する反発心を抱いていたと語る田原先生ですが、どうしてあえて中学校で教員をしようと考えたのですか?

教員になるのかなとは小学校低学年くらいの頃からぼんやり思っていました。親族や家族に教員が多く、身近な職業だったのに加え、親戚で集まったりするときに教職へのポジティブな話題しか出ないんです。それで、自分も教員になりたいという気持ちが芽生えたと思うのですが、学年が上がるにつれて、さっきも話題にしたように、大人への反発心が強くなってしまいました。自分の家族や親族から聞いていた部分と、実際自分をとりまく学校の先生の姿との間に、食い違いのようなものを感じるようになって。「こういう先生になりたいけど、こういう先生には…」みたいな気持ちも芽生えてきました。

-その葛藤の末に「こういう先生になりたい」なりたい先生像が生まれていったのかなと思いました。それはどのような姿だったのでしょうか?

とても大きく影響している先生が3人います。サッカーのトレセン活動を通じて出会った他中学校の先生と、産休代替として中学3年生の1年間関わってくださった先生、そして高校のサッカー部の監督として関わってくださった先生です。特に自分の中学時代は、全国的にも「荒れる学校現場」なんて言われていました。今では想像できないような出来事も頻発していたと記憶しています。しかし、そんな状況下でも、「心穏やかな空間」「前向き、主体的な雰囲気」を周囲に生み出す先生方がいたんです。その空間にいる生徒たちは、表情豊かに活発に活動しているなと。
気になって観察してみると、それぞれの集団の中心にいるのが、その先生方なんです。中学校教員、保健体育科、サッカー、社会教育というキーワードも全て、この3名の恩師によるものです。

-生徒を笑顔にしていたその先生方の魅力って、どういうところにありましたか? 

中学生だし、失敗を叱られることもあるけれど、そういったことの全てをポジティブに変換してくれる存在でした。起きてしまった出来事に対して、やってはいけないことはダメと叱ってくれるけれど、その上で、こういうところは良かったぞとか、こういうことがあるからこの経験活かしていこうとか。大人に反抗ばかりしていた当時の自分に対しても、渋滞していた感情の部分やエネルギーの使い方を整理してくれました。

-一緒に考えてくれる存在だったんですね。

そうです。自分自身の「これって全く意味ねえな」「またぶつかっちゃったな」などネガティブな感情に対しても、「なぜそう思うのか」「この状態がどんな未来につながる可能性があるか」など、受け止めてもらうだけでなく、深く考える習慣をつけてもらいました。「この視点ではどう考えるか?」はよく言われましたね。考える視点を切り替えてもらうことで、それまでは気が付かなかったことにも意識が向くようになりました。おかげで、中学3年生の後半になってから、少し気持ちの面で前向きになれるようになりましたね。

高校の恩師である先生からは、特にサッカーノートや日常の対話を通じて、繰り返し内省をする時間、自分と向き合う時間を創っていただき、私自身の「次の一歩」について根気よく関わり続けてもらいました。社会人になってからもこの3名の恩師からは様々な面で、厳しくも温かいアドバイスをいただいています。

失敗すると、失敗する方法が分かるだけ

-その先生方から学んだことで、田原先生が生徒さんと関わる立場になったときにも活きていることはどのようなことでしょうか?

うまくいかなかったときの捉え方ですね。失敗した時は、その「失敗する方法が分かった」だけ。失敗するよというデータが1個取れただけなんですよね。「あ、ダメだな」じゃなくて、「そのデータがあれば、今後は同じ場面で失敗しなくて済むぞ」と伝えられる。諦めない限り失敗はない。そういうことも踏まえて、「必要ない経験はない」「まずやってみる」ということも、実感を伴って生徒に伝えることができますね。

-田原先生は教員生活のほとんどを益田で送られていますよね。益田で教員をしたいと思われた背景にはどのような思いがあったのですか? 

もしもふるさと益田に、中学時代の自分と同じような子がいるとしたら、その子に関わりたいと思ったんです。あっちこっちにぶつかりながら、生きづらそうにしている子がいたら関わって笑顔にしたい。自分が反抗しながら過ごした時間が無駄だとは思わないけど、そのときにあの先生方に出会えたことによって、気持ちが楽になり、前向きに「次の一歩」を踏み出せたのは事実ですし、ふるさと益田の教育現場で、自分もそういう人間で在りたいと思うようになっていました。

輝ける場所はたくさんある

-どんな人でも笑顔になれる場の創出、それは学校現場でも、社会教育の現場でも、田原先生が実践されてきたことのように感じます。続いて、派遣社会教育主事時代のお話をうかがいたいのですが、特に印象的だったできごとや子どもたちの変化はありましたか?

子どもたちって、苦手なことや得意なことはそれぞれに違うけど、輝く瞬間、生き生きとした表情になる瞬間は絶対にあるんです。教科の学習とか、部活動とか、学校の中で輝ける子もいるけど、それらが全てというわけじゃない。地域で何かに取り組んで、褒められたり達成感を抱いたりすることだってたくさんあります。学校という場所では活躍できていないように見えても、地域だからこそ躍動できる子どもたちの姿が本当にたくさんあるんです。学校という限定的で狭い世界だけにこだわらなければ、輝ける場所はたくさんある。そこで活躍できる機会があるから、学校でもまた頑張れるし、もっとやりたくなる。そういう循環を感じるんです。

じゃあそういう場所が益田市にはどのくらいあるんだろうかと。考えるだけでは分からないので、実際に足を運び、その活動を担っている方々と対話する中で、「今の益田市にはこういう場所はあるけど、この分野がないな」とか「こことここがつながったら面白いことができそうだな」といったことに意識が向くようになりました。そして、実際に活動で人が繋がったり、新たな協働の場づくり進んだりする中で、次第に「次は何しようかな」と考えるようにもなりました。目的に向かって誰をどう繋ぐか、どのような場作りをするかということに挑戦することで、関わる活動にも広がりや深まりを感じています。気づいたら、全国で活躍されている様々な分野のスペシャリストとのご縁もたくさんいただき、楽しくてどっぷりハマっていましたね(笑)

「名前」で呼び合う関係性の中で、育っている子どもたち

-ここまではお仕事についてのお話を聞かせていただきましたが、プライベートについてもお聞きしてもいいですか?3兄弟のお父さんでもある田原先生ですが、子育てのお話もうかがってみたいです。

自分自身が、様々な方に関わってもらい、支えてもらったからこそ、転んでも立ち上がってくることができたように思います。だから、自分の子どもを取り巻く環境についても、親以外の人にたくさん関わってもらえるようになったらいいなという思いが強いですね。私は西益田地区に住んでいますが、地域の方が、たとえば他所のおじいちゃんおばあちゃんとかが、うちの子を名前で呼んでくれる。名前で呼ばれると関係性が変わってくるんですよね。だから子どもも、その大人のことを「○○さん」と呼ぶようになる。親以外に頼れる人が地域にいる、その関係性があるっていうのが益田のいいところだと思っています。人と関わる上でのハードルが低い。そのあたりが自分自身にとってすごく過ごしやすかったし、自分の遺伝子を継ぐ3人のわが子を見ると、彼らも過ごしやすいんだろうなと。

自分は教員でもあって、親でもあります。どうしても教員として、親としての役割を演じないといけない部分、役目を果たさないと行けない部分がある。でも、子どもたちから見れば、学校に先生がいて、家に帰っても先生みたいな親がいるってどうなんだろうと思ったりもするんです。生活時間の大部分で、「きちんとしたこと、正しさ」を求めてくるような大人が近くにいる。そういう日常の中で、1人でも親っぽくない、斜めの関係の大人が、たとえば、好きなことに付き合ってくれたり、よくないとこも含めて受け入れ、認めてくれたりする機会があることは、とても貴重で大切なことだと思っています。自分自身もそうだったので、親になった今、思春期の自分をわが子と重ねてみたときに、あらためて我が身を振り返ったり、自分や子どもを取り巻く環境にありがたさを感じたりすることはありますね。

-たくさんの方と一緒に子どもを育てるということの面白さや可能性を感じられるお話でした。
ご自身のお子さんについて、いろいろな方に関わってもらえてるからこそ、こういうところが育まれているなと感じる部分はあるのでしょうか? 

人が好きだということですね。誰にでも自分から関わりに行こうとするんです。また、物事や人を多面的に理解しようとしてるんじゃないかなと感じることもあります。親や先生が言うことだけを正しいと信じ込んでしまうのではなく、いろいろな人の姿を見て、価値観を共有したうえで、「これってどうなんだろう」と自分で考えようとするし、それを大人相手にしっかり伝えようとする。そういう部分は、間違いなく様々な人に関わってもらっているおかげだと思いますね。
ただ、指示された学習や宿題は苦手です。私と同じです(笑)

-最後に益田の10代の子にメッセージをお願いします。

必ず帰ってきてね、ここにいつまでもいてほしい、といったことを言うつもりはないけれど、季節ごとの帰省とかも含めて、「みんなが帰ってきてくれるのを待っていたり応援していたりする大人や仲間がたくさんいるよ」ということを伝えたいですね。やりたいことがあって帰ってくる人も、やりたいことができずに帰ってくる人も、ただふらりと帰ってくる人も…。「困っていても困っていなくても、いつでも帰っておいで。」っていう感じかな。

母港みたいな感じで、エネルギーを補給しに立ち寄ってほしい。燃料を積んだら、また自分が矢印を向けた方向へ。元気に旅に出てこいと。誰かに必要とされたり、本音で話したり、ただ一緒に思い切り遊ぶだけとか、そういうことで心身のエネルギーが補給できるんだとしたら、そのための港・ふるさとがここに変わらずあるよっていうことを伝えていきたいですね。なかには、この港に立ち寄っているうちに、矢印が内側に、益田の方に向く子もいるかもしれないから、その時は楽しく一緒にやろうぜって。ラフにね。

-貴重なお話ありがとうございました!

文責:益田市連携のまちづくり推進課
文章:一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー

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