2021年9月15日 (水)

益田のひとづくり益田20地区,吉田地域づくり

映画が私を変えてくれた。~みんなでつくる新しい映画館の復活~

 今回は、小野沢ビル内にある、映画館を復活させるプロジェクトを進めておられる、千葉県からIターンした和田浩章さんにお話を伺いました。
 益田出身の妻と出会い、自分が妻のふるさとにできることは何か、映画館の復活、今後について紹介します。

私自身について

 私は、生まれつきアトピーがあり、入退院を繰り返していて、中学生まで学校にほとんど行っていませんでした。包帯ぐるぐる巻きで、学校に行ってもいじめられていました。
 その中で、唯一の拠り所が「音楽」と「映画」でした。
 高校生からは、誰も自分のことを知らない偏差値の低い学校に行きました。その学校では、自分と同じ年齢でありながら、自分よりももっと劣悪な家庭環境で過酷な毎日を送っている人たちがいて、なんて不条理なんだろうと思いました。
 高校に行くまでは、私だけが、なぜこんな目に合わないといけないのかと思っていました。
 しかし、自分だけが悲しい、苦しい思いをして生きている訳ではないということを知りました。
 中学生まで学校に行っていなかったので、コミュニケーションを取る経験がほとんどなく、「映画」を通して、コミュニケーションの取り方や人に対する思いを教えて貰いました。

 大学生になると、人の行動の意味を学びたいと思い、心理学科を選択しました。ですが父親のリストラを機に、大学を退学するという選択をしました。

映画を届けるひとになりたい

 大学時代から映画と音楽に囲まれたレンタルビデオショップで働きました。2年間のフリーター期間を経て、このままでいいのかと自問自答していた時に、「やっぱり映画に携わりたい」、「映画を届ける人になりたい」という思いが沸々と湧き上がってきました。そこで、映画の配給会社に履歴書を送ったのですが、全て不合格でした。
 なぜ、不合格だったのか考えたときに、今までキャリアとして映画に携わっていなかったからだと気が付き、様々な映画祭のボランティア活動を始めました。
 そこで活動している中で、「目が見えない人に映画を届ける映画祭があるんだけど、興味ない?」と言われ、凄くワクワクしました。観れないものが観れたら嬉しいし、楽しいに決まってると思いました。

目が見えない方に映画を届ける

 ただ、最初はどんなボランティアをするのだろうかと不安に思っていました。何故なら他の映画祭は、黙々と裏で作業をすることがほとんどでした。ですが、今回の映画祭では、「目が見えないおじいちゃんの横にいて、一日一緒に映画を見てください」と言われただけだったのです。
 午前の部では、そのおじいちゃんと一緒に、バリアフリー音声ガイドをラジオのイヤホンで聞きながら時代劇の映画を見ました。
 バリアフリー音声ガイドとは、音だけではわからない視覚情報を解説するナレーションのことを指します。たとえば「夜。宿で男が沈痛な面持ちをしている。」といったことです。
 昼食では、お弁当を、何時の方角にどんな食べ物がありますと説明しながら一緒に食べて、午後からまた、音声ガイド付きの映画を見ていました。
 午後からの部は、洋画作品だったのですが、ラジオからは字幕を吹き替えのように朗読する音声と場面解説のナレーションが混ざって流れてきます。おじいちゃんは、開始直後に寝てしまったので、「30分も外国映画を見ずに寝てしまったら、目が見えないおじいちゃんは映画に付いていけないだろう」と勝手に思っていました。
 ですが、ラストの感動的なシーンで隣から嗚咽が聞こえてきました。眠っていた目の見えないおじいちゃんが、誰よりも泣いていたのです。
 その時に、私が、穿った目でおじいちゃんのことを見ていたことに気づかされました。目が見えないから無理だろうと思ってしまっていたことを恥ずかしいと思いました。

 そのことがきっかけで、目の見えない映画祭を主催していたバリアフリー映画推進団体CityLightsに入りたいと申し込みをしたところ、CityLightsの平塚代表に「和田くんは心で映画を観るんだね。和田くんみたいな若者と団体の夢であるバリアフリー映画館を創りたい。」そう言われ、「一人で背負うのには大きすぎます。一緒にその夢をかなえたいです。」と伝えたところ、24歳の時に、CityLightsに雇って頂きArt Space Chupki支配人として従事することになりました。

東京で新しい映画館をつくる苦難

 目の見えない方の映画館を作るということに着手したのですが、見事に失敗しました。
 映画館の興行法など知らずに、ただスクリーンやプロジェクターをつけ、ブルーレイレコーダーで流せる映画を上映できるような、10人ぐらいが集まれる小さいカフェのような感じでやろうと計画していました。
 そこで、CityLightsがこつこつ貯めていた全資金500万円を投じ、作り上げた映画館を日経新聞に取り上げて頂き、たくさんの方に知って頂くことが出来ました。
 しかし、報道発表の次の日に、消防の方から「映画館ができるということは聞いてないですが、どういうことですか。」保健所の方からも「連絡を受けていないが、どういうことですか。」と言われ、僕たちの夢はガラガラと崩れ落ちたのです。映画館は不特定多数の方が一緒に映画を観るので、建築法・消防法が一番厳しい施設になります。それでもなんとかならないかと興行法について調べてみると、月に4日を超えて、上映していると興行場になるということだったので、月に4日だけ上映し、他の日は、映画の上映以外の使い方をしようと決めて、2年間取り組みました。すると、ある日突然オーナーの都合で退去して欲しいと言われました。
 ただ、退去した時に、この映画館のスクリーンやプロジェクター、机や椅子、看板などの物品をどうしようか。考えた末に、一か八か、資金は無いけれど、
「ここで挑戦しなかったら、もう一生バリアフリー映画館を作ることはない。今、世の中には多様性を伝える事が必要だ。」と思い、もう一度挑戦する決意をしました。
 たくさんの物件を探し回りました。すると、「見つけてきた!」と平塚代表から言われ、見に行くと、真四角の小さなテナントがありました。「私はここにスクリーンが浮かんだの」と嬉しそうな顔をした平塚と共に、クラウドファンディングを始めました。目が見えない方も、耳が聞こえない方も、車いすの方もどんな方でも映画を楽しむことができるユニバーサルシアターを作るプロジェクト。色々な方々が応援して下さり、3か月で1,800万円の寄付が集まり、500人以上の方から賛同を得ることができました。
 CINEMA Chupki TABATA支配人として働き始めたのですが、21席しかない日本最小の映画館。東京の家賃は高く、映画だけ上映しているのでは、この映画館を存続させるのは、難しかったです。
 しかし、皆さんから頂いた寄付で出来た映画館。なんとかしないといけないという思いで、音声ガイドを一般の方にも聞いて貰えないかと検討しました。
 そこで、有名声優の方とコラボをしたことで、一般の方も音声ガイドを聞いて頂けるようになり、CINEMA Chupki TABATAのファンの輪が拡がっていきました。

私の益田との出会い

 映画の上映だけではなく、東京で未来の映画館を創るワークショップのゲストとして呼ばれた際、妻が参加しておりました。
 そのワークショップの中で、島根県益田市出身の妻が、島根で映画を通じて、映画以外の話をすることができる場所を作りたい、島根に関わることをしたいという話をしていました。
 実は妻は、東京都に住みながら、しまコトアカデミーなどに参加し、島根と関わり続けていました。
 ご縁あって、妻と結婚することとなり、新婚旅行では、妻がしまコトアカデミーで行ったことのある、隠岐の島4島を巡りました。
 その際に、すごく仲の良い友達がたくさん出来て、とても嬉しかったし、島根のひとはとても温かい人たちが多いと感じました。
 そのご縁もあり、その後に隠岐の島町と海士町に樹木希林さんが主演の『あん』を上映しに行ったり、隠岐の島町がロケ地となった映画『KOKORO』をシネマチュプキで上映した際には、実際に隠岐の島町からゲストを招いて対話する場を設けたり、「ふるさと」をテーマにした吉本ばなな原作の『海のふた』の上映とトークイベントを開催したりしました。
 益田市では、帰省の際に、色々な方と出会って、とても仲良くして頂きました。
 妻は結婚前から「ふるさと」という言葉をよく口にしていたのですが、その意味がようやくわかったような気がしました。
 音声ガイド制作のワークショップをCINEMA Chupki TABATAの2階でやっていた際に、小野沢ビルのお孫さんと出会い、「島根県益田市が出身です。」と言われて、とてもびっくりしました。東京で益田の人に会ったという驚きがありました。
 「実は、益田の映画館の創業者の孫です。ぜひ一度、益田の映画館を見て欲しい。本当に良い状態で残っていて、有効活用をしたいが、私は東京を離れることができない。でも、その映画館のことがずっと気になっているんです。あの映画館は、自分にとってもすごく思い入れのある場所なんです。」

 そう言われて、雷が打たれたような感覚になり、なんとかしたいなと思いました。


妻のふるさとに私ができることはないか。

 一方、プライベートでは、妻との子どもを授かりました。
 子育てをしながら、CINEMA Chupki TABATAの支配人として勤める中で、過労が故に病気になってしまいました。その後、休職をせざるを得ない状況になり、それでも病気が治らず、退職することになりました。
 映画のことを諦めて、家庭のことに専念できるような職場を探している時に、アニメーション制作会社STUDIO4℃の『えんとつ町のプペル』の音声ガイドを書いて欲しいとの依頼があり、それならば、もう一回映画の世界に飛び込もうと決意しました。
 これから、どこで挑戦しようか悩んでいた際に、実際に益田の映画館を見に行ったところ、こんなにも綺麗な状態で残っている映画館は無いと思いました。多くの映画館は、取り壊されているか、スクリーンがないなどが多い中で、奇跡だと思いました。
 コロナ禍で、妻が妊娠してこのまま東京で暮らすことが、考えられなかったこともあって、映画に人生を捧げたいし、妻のふるさとに何もせずに終わってもいいのかと思いました。妻のふるさとを無くしたくない、妻のふるさとに何かしたいと思い、自分にできることは何かと考えたときに、映画に纏わることしかできない。このキャリアを活かして、益田で出来ることは何か。
 益田の元映画館のオーナーさんに話したところ、ぜひこの映画館を使ってほしいといわれ、益田で映画館を復活させることを決断しました。




みんなでつくる映画館へ

 

 益田で映画館をすることは、人口が少ないなどのハンデキャップはありますが、その分、愛される映画館、みんなでつくる映画館、主語がみんなになる映画館になるといいなと思っています。「映画館あったらいいと思う?」と聞くと、多くの人は「あったらいいと思う」と答えると思います。
 「あったらいいな」という映画館ではなく、私は「あの映画館に行きたい、あの場所が好きだから行きたい」と思って頂けるような映画館にしたいと思います。

 益田の人は、色んな人と人を繋いでくれるし、何とかしようと思う強い気持ちを持っている人や益田愛に溢れている人が多いと感じています。そういった方を大事にして、色んな人の声を聞きながら、ただの映画館ではなく、映画やその他の地域団体のワークショップや、ロビー前でマルシェを開催して地域の方々が作っている商品の販売をするなど、映画だけではない形で色んな人が関われる映画館にしたいなと思っています。
 ただ、この映画館はとても綺麗に残っているのですが、2008年8月31日に閉館して以来13年振りに稼働するとなると、映写室がホテルになっているなど、設備投資がかなりかかります。
 また、コロナの影響もあり、換気設備なども整え、お客様が気兼ねなく来て頂ける環境を創ることは必須になります。またヒット作を上映する為には、映画館専用のセキュリティが十分に備わったプロジェクターでなければならないという事もあります。
 新作映画を見たい方もおられると思いますし、過去の映画を見たい方もおられると思います。
 どこまで出来るかわからないですが、市民の皆様に見たい作品を見て頂けるように、喜んで頂けるように、できる限りのことはさせて頂きたいと思っています。新参者の若輩者ですがご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いします。

文責:益田市連携のまちづくり推進課

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